岐阜大学大学院医学研究科 産業衛生学分野
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生命について
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 最近、「生命科学」、「生命倫理」などと生命を冠した名称をしばしば目にするようになった。また「生命」とは何かという公開講座もいくつかの大学で開かれている。しかし、有史以来この問いに対する明確な答は出されていない。
 「生命科学」について、「生命科学」を提唱し、主導した三菱化成生命科学研究所初代所長の江上不二夫(1996)は、「一口で言えば、それ(生命科学)は人間生活のための生物科学といえましょう。それはもはや単なる自然科学の一分科としての生物化学ではなく、人間生活のための取り入れた人文社会科学的思想をも包含した総合科学でであります。」と述べている。また、江上の弟子で生命誌副館長の中村桂子(1996)は、「これまで科学に関しては、たいてい西欧の先例を取り入れていればことたりていたために、日本独自の考えを出す必要がなかったようです。生命科学は、よその国のライフサイエンスをそのままもちこむことのできない面をもっています。」としながらも、生命科学における「生命とは何かを定義しようと思うと、これはむずかしい。」と述べている。
 「生命倫理」についても芝浦工業大学教授の棚橋☆(1991)は、「アメリカで誕生し、成長した生命倫理は、アメリカ独自の色彩が濃く、日本では、歩みが遅々としている。その原因は、生命倫理と称する分野において、「生命」そのものの意味の検討が十分ではないことから来ていると推測している。」と述べている。
 そこで「生命」の意味を知るために、ブリタニカ国際大百科事典(ティービーエス・ブリタニカ)の生命の項をひいてみると、「生命と呼ばれる現象について、すべてを満足させる定義を与えることは不可能といってよい。(中略)生物学の諸分野によって得られた生命についての知識は、すでに厖大な量に達している。にもかかわらず、生命とは何かということについて、専門学者の間に一致した意見の存在しないのは注目すべきことである。」とある。また、最近出版されたNHKサイエンス・スペシャル「生命40億年はるかな旅1」(NHK取材班、1994)では、「生命とは何か。人類はずっとこの大命題に挑んできました。最先端の生命科学が、分子の世界に分け入って懸命に生命の謎を解き明かそうと努力を続けている今日も、その答えはそう簡単に見つかりそうもありません。」と記載されている。
 さて、「生命」という名称について、中村桂子(1996)は、最近発刊された講談社学術文庫「生命科学」のなかで、「ライフが生命という意味と同時に、生活という実態をあらわしているのに対し、生命という日本語には、生物、生体などとはちがった、抽象的な、もう少し日常的なことばを使うなら心的な意味合いが強い。」と述べている。さらに「生命」という名称にこだわり続けた元学習院大学の哲学教授であった紀平正美は、その著「人と分化」(1948)のなかで、「敢て生と命を区別す。」と延べ、他の著書の中でも、「「生命」は英語のライフとは異なる。」と記している。「生」と「命」について各字典によれば、「生」は「いきる。うまれる。はえる。ふえる。なま。−−−」そして「いのち」とも読める。一方、「命」は「いのち。みことのり。おしえ。ことば。みち(道)。はかる(計)。めぐりあわせ(運)。な。なづく(名)。命名。−−−」とある。よく「人名は地球より重し」という。しかし決して「人生は地球より重し」とは言わない。「人生は朝露の如し」となる。命の方は地球より重くなり、生の方は朝露の価値しかない。この差はいったい何か。広辞苑によれば「命(いのち)」は「生物の生活する原動力」とある。生物の範疇に「人体」も入っているのであるから、「命(いのちは「生(いのち)」より比重が重いことになる。「命」はその原動力であるから、命がなかったら、また、命と切れたら生活できない、生きていけないということになる。人体においては、この命とつながっていなければ、生きていくだけでなく、言葉を使うことも、字を書くことも、計算も、第一、命名することもできない。万生物を生かしている原動力である命はいくらでも懸けられるが、生は反対語でもわかるように、懸けてしまえば死しかなく、二度と懸けることはできない。
 以上のように「生命」とは何かについては、「生」だけ「命」だけ追求しても答えは出ない。さらに中村桂子や東京大学名誉教授の多田富雄(1994)が、「「生命科学」は「人間とは何か」「自己とは何か」という大問題につながることになろう。社会はそれに無関心ではありえない−−−」とまで述べているように、「生命」「人間」「自己」は切っても切れない密接なつながりがある。しかし、「生命」と同様に、「人間」「自己」についても明確な答えは出されていない。
 アメリカの歴史哲学者であるAlbert R.C.Westwood(1989)は、「人間とは何かというテーマは、遙か古くより思想家と神学者が挑んできた問題である。多くの賢人達がこの問題のいろいろな側面について示唆に富む意見を出しているが、未だ完全に満足できる解答は得られていない。」と述べている。また「自己」の意味を知るためブリタニカ国際大百科事典(ティービーエス・ブリタニカ)で「自己」について扱っている「自我」の項をひいてみた。結局「自我」と「自己」の明確な区別はなされておらず、さらに「自我とは何あれ、いかにあるべきかということは、人間がものを考える存在であるかぎり、われわれが運命として引き受けざるをえない問いであり、数千年前と同様に現在も謎である。(山本 信)」と記されている。
 上記、有史以来の三命題、「生命とは何か」「人間とは何か」「自己とは何か」、この難問の解答については「全学問・教育」の範疇を超えることになるので−−−この辺で−−−。            
 
 
文献  
江上不二夫   (1996) 原本 序、講談社学術文庫「生命科学」、中村桂子著、7−8、講談社(東京)
紀平正美    (1948) 人と文化、1−190、鳳文書林(東京)
中村桂子    (1996) 講談社学術文庫「生命科学」、1−314、講談社(東京)
中村桂子
多田富雄
養老孟司    (1994)
「私」はなぜ存在するか−脳・免疫・ゲノム、1−240、哲学書房(東京)
NHK取材班  (1994) NHKサイエンス・スペシャル「生命40億年はるかなる旅1」海からの創世、1−136、日本放送協会(東京)
棚橋 實    (1991) 生命倫理における「生命」の意味、日本生命倫理学会編、生命倫理を問う、131−137、成文堂(東京)
Westwood A.R.C.(1989) より完全な人間になることを目指して「実際論的アプローチ」、「人間とは何か」を共通テーマとした「第二回陽光文明国際会議」抄録集、123
 
 
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